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非現実の王国で

「アドルフ・ヴェルフリ 二萬五千頁の王国」@東京ステーションギャラリー

https://www.instagram.com/p/BT_mcL3l3zR/
www.ejrcf.or.jp
2回3回と見にいくつもりでいたら、5月6月野球とバスケに走ってしまったせいで1回しか見れないまま終わってしまった。今更ですが、感想書いておきます。
展覧会については「美術手帖」のアウトサイダー・アート特集(2017/2月号)で知り、前売りを買って楽しみにしていました。

美術手帖 2017年2月号

美術手帖 2017年2月号

もともとは2007年初夏の原美術館ヘンリー・ダーガー展にたまたま行ったのがきっかけでダーガーに心酔してしまい、そこからアウトサイダー・アートというものに興味を持っていました*1
アドルフ・ヴェルフリという人については、同誌2009/7月号を見たのがきっかけだったか、"「アール・ブリュット」の最初期の作家"として名前といくつかの作品を覚えていました。"アウトサイダー・アート界のゴッドファーザー""アール・ブリュットの王"と喧伝される彼としては意外にも、日本では初めての大規模な回顧展だそうです。
美術手帖 2009年 07月号 [雑誌]

美術手帖 2009年 07月号 [雑誌]

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■とりあえず展覧会の感想

膨大/緻密/執拗な書き込み

第一印象として、まずぎっしりとつめこまれた線の量・強さに圧倒されます。そしてマンダラのように堅牢な構図、次に色。自然に「なんだこれ〜〜〜」と鼻息荒く興奮してしまうような不思議な魅力。

反復されるモチーフ・パターンのグラデーション

彼の絵には、決まったモチーフ・パターンが繰り返し出現します*3。同展の図録によると、「年数を経ても少ししか変化しなかった」とのことですが、とは言え手書きなので*4、その一個一個にはもちろん少しずつ違いが出るし、そもそも決まったモチーフ・パターンと言ってもその細かなバリエーションはとてつもなく豊富。これがスゴイ。特に、頻出する"頭に十字架ささってる丸い頭の男"(自画像らしい?)や「フォーゲリ(小さな鳥)」と呼ばれるモチーフだけでも、口が開いてるとか前足があるとかというレベルで言えば、何千種類あるんだろうという世界。これをどのように発想していたのか。

"つじつま"

それから、1枚としてはシンメトリーに描かれている絵が多いのですが、完全に正確に左右で鏡になっているというものはない(上のとおり制作プロセスは謎ですがおそらくはフリーハンドで描いているので)*5。でもたとえば、左側を大きく描いてしまったせいで(?)右側がちっちゃくなっちゃったりして、でも枠のなかに収まっていくひとつひとつのパターンは左右で「つじつまが合っている」(左右で丸の個数が同じとか、左右とも赤で始まって青で終わるとか*6)。そのへんのおかげで完成度、というか強度とか説得力とかがやたら高く見えるこの不思議。
さらに言うと、一見シンメトリーな構図の中で、逆にたまにわざと(?)ハズして左右に違う要素が描かれているところもあったりして。そしてこれがまた効果的でかっこいい。

筆跡と色鉛筆の着色の鮮烈さ

筆致(?筆跡?筆圧?)が統一されていて、少しも気が抜けているところがない*7。基本は濃く強く描かれていますが、たまに線の薄い絵もある。けれども、濃いは濃い、薄いは薄いで統一されていて、1枚の絵の中でまちまちということがほとんどない*8
彩色については、基本的には、鉛筆で線を描いたあとに色鉛筆で着色しているようです。つまり、線は基本的には黒。…と思いきや!たまにいきなり色鉛筆で線を描いているところもあり、しかもすごく効果的な使い方をしているように見えます。しびれる。
また色使いもスゴイ。色の組み合わせがとっても魅力的。鮮やかな暖色でまとめたものが多いですが、寒色系の沈んだシックなものもあります。それでも、1枚の中で彩度/明度が統一されていてものすごくキレイ。この色彩感覚…!
それから、特に人物像について、白目のとこは白*9、くちびるだから赤、みたいな定型的に決まった着色がひとつもないように感じました。「美術教育を受けていない」*10子どもたちですら*11、肌は「はだいろ」で塗り、口は「あか」で描くというのに…!*12
塗り方についても、グラデーションに塗られているところもたびたびあり、ここがまたきれい。同系色の濃淡だけでなく、反対色のグラデーションもあったりしてとにかく美しい*13

コントロールされている部分/されていない部分の境界のあいまいさ:どこまで意識的にやっているのか?

個々のモチーフ・パターンの意味やその反復には決まったルールがあるようにも思えるけれど、ただとにかく単に空白を"埋めている"ようにも見えます。
このへん、ヴェルフリのなかにルールがあったのかどうかは、今回図録や関連書籍を読んでもわかりませんでした。ただし、モルゲンターラー博士*14によると「細部の意味は彼自身にもわかっていない時がある」。
つい意味や秩序基盤(規則・ルール)を"意味深"に読みたくなるけれども、もはや誰にもわからないし、無意味なことなのかも知れません。

■ヴェルフリの作品群について

ヴェルフリの作品の発展の仕方もものすごい。

「揺りかごから墓場まで」(1908-1912)

ダーガーでいう「非現実の王国で」にあたる*15ヴェルフリの世界観の大もと・根幹をなすものだと思う。これが25,000ページだということが展覧会のタイトルの由来にもなっています。まず"自伝"と、それに付随する挿絵・詩・コラージュ・音楽などなどなどなど…から成る一連の作品群。
自伝として始まるものの、ダーガーの「非現実」と同様、現実と創作が入り混じっている、というかほとんど創作の物語。それでもヴェルフリにとっての「過去」なんだろう。ここから次の未来、さらに次の作品へと展開していくのがすごい。

「地理と代数の書」(1912-1916)

ヴェルフリにとっての「未来」。ヴェルフリの財産(架空の)で土地を買い占め、"名称変更により"地球全体を買い占め乗っ取り、さらには宇宙に進出。そしてそのことによって財産(架空の)は天文学的に増えていく。それがもう膨大な額すぎて、億とか兆とか無量大数*16といった既存の単位では数えられなくなり、自ら新しい単位を作ってしまう。しかも最大のものは「ツォルン」。ドイツ語で「怒り」だと!
もう"数字絵"、"絵"の部分ははじに追いやられ財産の利子計算の数字でほぼ埋まっている絵もあります。というかこれは"絵"なのだろうか?でも「2」だけやたら装飾的・グラフィカルに描かれてたりもする…。
この作品でヴェルフリは「聖アドルフ巨大創作物」への道筋を示し、自らを「聖アドルフⅡ世」とします。もう、すんごい壮大…。

「歌と舞曲の書」(1917-1922)

数字の次は音楽。"絵"は減り、コラージュ作品が増えます。すでに「揺りかごから墓場まで」の頃から絵のなかに楽譜(っぽいもの)が書き込まれていますが、たぶんヴェルフリは楽譜読み書きできたわけではなく、イメージで描いてたんだと思います。読めて演奏できる楽譜ではない("6線譜"なのに、逆に「楽譜っぽさ」の完成度はすごい)。なのでメロディは階名(ドレミ)で描かれている。このこと自体がとんでもない発想。発想というか彼にはそれが自然なものだったのでしょうが…。
7,000ページ以上に描かれた歌が、ある決まったルールで連続したり重なったりという構造が規定されているらしいんですが、このへんはもう複雑すぎて図録とかを読んでもわたしにはよくわかりませんでした…。

「歌と行進のアルバム」(1924-1928)「葬送行進曲」(1928-1930)

音楽・歌からもっともっと抽象的・音声的なものへ。キーワードと数が絡み合い、ある統合された形式・構造を持った音とリズムの群へ。
ヴェルフリは「葬送行進曲」未完のまま亡くなったそうなので、これが実質・結果的には、ヴェルフリの世界観の究極形なんだろうなと思います。"視覚的"なモチーフから"音声的"なモチーフの反復へ、という流れはありますが、変わっていないのはその空白を埋めていく「密度」と「量」。結局、第一印象に立ち返ることになります。

■再び、感想(個人的な)

生の言葉について

文字や言葉、音にもこだわりがあるように見えるんだけれども、わたしには言葉(ドイツ語)がわからないので、意味のあるものなのか、ジャーゴン的なものなのか、造語にしても別の言葉をもじったものなのか、とかというところがわからなくて、ニュアンスを感じられないのがとても残念*17

モチベーションはどこから?

技法やプロセス、創作風景などほぼ情報がないのもあるし、どんな風に描いていたのか、これだけのことを続けるためのパワーはどこから来ていたのか?単純に割っても、1日3〜4枚は描いていた計算になるそうです。

一体、どれだけ鉛筆を削ったのだろう?何を思っていたのだろう?(または何も思っていなかった?)…ということを想像すると、想像もつかないその思いに圧倒されて、ぎゅーっと頭に血がのぼってクラクラめまいがしてくる。独房に閉じ込められた、孤独な、1人のおっさんの中に、どれだけの世界が広がっていたんだろう…?果てしない。もう誰にもわからない。

絵自体の強さ・魅力はもちろん。でもそこからなんとなく"感じとれてしまう"裏側のパワー・情念の底知れなさ。「見てはいけないものを見てしまっているのでは?」*18、と覗き趣味的になってしまっている自分に少しの後ろめたさも感じます。

ただ一方で、その"なんとなく感じてしまう"異様さ、見たことのない・わからないものに出会ったショック。けれども同時になんとなく感じてしまう共感といとしさと憧れ。ただただ"なんとなく"の印象で自分で実態がつかめない…、けれども、その底知れないモチベーション・パワーに面食らっている(面食らい続けている)ことだけは確かだと思います。



以下、蛇足でメモです。長くなってしまいますが、記事を割るほどの内容でもないので。

■「美術手帖」をきっかけに色々と読んだので(ざっくり考えを)

アール・ブリュット」「アウトサイダー・アート」をめぐる問題

デュビュッフェが最初に定義した狭義の「アール・ブリュット」の意味、その発見・紹介による貢献はまず、何よりも大きいと思います。そしてその言葉や、さらにその後、(より広義の)「アウトサイダー・アート」のラベリングにより起こったことや、日本での意味付け(「和製アール・ブリュット」=障害者アートとして)も経緯や背景として仕方ないし、むずかしいな〜という素人の感想しか現時点ではありません(素人なのであまり書きません)。

けれどもジャンルの名前がなんであろうが/作者に障害や病気があったがどうかに関わらず、ヴェルフリやダーガー、その他アウトサイダー・アートアール・ブリュット)の作家の作品になにか感じ取ってしまう底知れないものがあること、そしてそこから受けたわたしの思い・感動・ショック、さらには価値観の変化まで、あったことは事実(少なくとも、わたしにとっては!)。

それこそ、それが障害や病気に由来するものなのかはわかりませんが。ただ障害や病気のせいで社会からの孤立してしまい、そういった魅力のある作品が日の目を見ない(わたしが見られない)ということは残念。美術/福祉のどちらが、という問題ではなく、両面からすくいあげていかなければこぼれ落ちて消えていってしまうものがたくさんあることは想像に難くない。アウトサイダー・アートアール・ブリュットの名の下であれ、芸術/福祉の視点のどちら側から"発見"されたかという経緯は別として、結果としてこぼれ落ちて埋もれるすばらしい作家・作品が減り(わたしの)目に触れる場に出てきてくれれば、と思います(随分身勝手な言い方だし、そんなんじゃなんの具体的な"答え"にもならないのはわかっていますが)。

「古典的アール・ブリュット」というカテゴリの可能性?

"美術史のどこにも属さないもの"として出てきたもの、"美術の一つの流れ"として見做せないものだとは思いますが、ダーガーやヴェルフリやその時代(デュビュッフェの「アール・ブリュット」の命名前後?)の作家・作品は「古典的アール・ブリュット」として、一旦別物にしてしまったほうがいいのではないかという素人感想。閉鎖病棟に閉じ込められていたといった、純粋な「アウトサイダー」の条件・環境的要因は時代によるところが大きいと思うし、その特定の条件下における共通した特徴(見た目的なものとか、ある圧倒的な世界観があるという作家側の共通性ではなく、既存の文脈からかけ離れているからこその新鮮さを感じるというような受け手側のほうにあるもの)があるのは確かだと思う。また、今回の展示は「古典的アール・ブリュットの展示」だったと思う。

時間が流れて時代が変わって定義自体が揺らいできているなかで、その混乱のなかで(現在の「アール・ブリュット」とひとつづきになってしまっているせいで)ダーガーやヴェルフリのような古典的な作品がまた埋もれてしまったりしたら…という余計な心配をしてしまいます。


アドルフ・ヴェルフリ:二萬五千頁の王国

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アウトサイダー・アート (光文社新書)

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アウトサイダー・アート

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アール・ブリュット アート 日本

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精神病者はなにを創造したのか: アウトサイダー・アート/アール・ブリュットの原点

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アウトサイダー・アート 芸術のはじまる場所

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ヘンリー・ダーガー 非現実の王国で

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美術手帖 2007年 05月号 [雑誌]

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ヘンリー・ダーガー 非現実を生きる (コロナ・ブックス)

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HENRY DARGER'S ROOM

HENRY DARGER'S ROOM

*1:このブログの過去の記事を読み返したら、ダーガーについてあとで書く書く言ったまま書いていない…!

*2:以下、ここでは、「美術手帖」2017/2月号にならい、「アール・ブリュット」よりも広いものをカバーする意図で、「アウトサイダー・アート」という言葉も併せて使わせていただきます。それから、わたしにとってはダーガーが「神」であり基準なので、彼との比較で書いている部分が多いです。

*3:エルカ・シュペリ(アドルフ・ヴェルフリ財団の創始者の一人))によると、「形態語彙」=「Vocabulary of Forms」。おもろい。

*4:ヴェルフリがどういう風に制作していたのか(下絵があったのかとか、廃棄された失敗作があったのかとか)は、一鑑賞者であるわたしにはわからないものの。そのへんについては図録にも解説されておらずわかりませんでした。

*5:同じくアール・ブリュットの作家オーギュスタン・ルサージュの作品は、書き込み量と曼荼羅のような構図という特徴においてはヴェルフリと共通しているのですが、ルサージュの絵は厳密にキッチリシンメトリーになっているので対照的だなと思う。この2人の差はどこから来ているんだろう?

*6:ただしよーく見るとやっぱり成功していないところもある。ただし、「つじつまが合っている」(ここでは、単に「うまくごまかしている」の意)ので、あからさまなミスには見えない。

*7:ダーガーは、拾った雑誌から図版を転写しているという技法の問題があるにせよ、あからさまに線がヘロヘロになっている箇所があるよなあと思います。が、それはそれでいとしい。

*8:そのときの鉛筆の問題か?という気も…。

*9:上のとおり多くは鉛筆の黒の線がベースなので、さすがに黒目は黒。ヴェルフリ自身の目の色が何色だったかは知りませんが…。

*10:これが「アウトサイダー・アート」を定義するときにとりあえず一番最初に聞く言葉だと思います。

*11:ただし、初めに「アール・ブリュット」を定義したデュビュッフェは子どものアートを「アール・ブリュット」から除外していましたし、以降の他の多くの研究者等が同様の考え方であることには、わたしも同じ考えを持っています。

*12:季節柄、5・6月は子どもが描いたお父さん・お母さんの似顔絵をよく目にしましたが、顔を緑で塗り、口を黄色で描くような子はひとクラスに1人いるかなどうかなって感覚。

*13:ダーガーには反対色間のグラデーションはほぼ見られません。ただこれによって戦争などの切迫した場面にも関わらず、平面的なせいでちょっと呑気な雰囲気を醸し出しており、その結果得られる異様さ・ギャップにはとてつもない魅力を感じます。

*14:ヴェルフリのいた精神病院の医師。ヴェルフリを最初に「発見」し、世の中に紹介した人。

*15:ダーガーはまず「非現実の王国におけるヴィヴィアン・ガールズの物語、あるいは子供奴隷の反乱に起因するグランデコ対アンジェリニアン戦争と嵐の物語」(略して「非現実の王国で」:15,000ページ超)を執筆し、この挿絵として数百枚の絵を描きました。

*16:日本語ではこれが最大?ちなみに、わたしの数少ない小さい頃からの特技は、この数の単位と「寿限無」を全部暗記していることです(些細…)。ただ、いかんせん小さい頃にゴロで覚えただけなので意味はわかっていません。

*17:絵の中に描かれているドイツ語は、「なんとか読めるが、奇妙な文章」だそうです。

*18:ヴェルフリは人に見られることを意識していたようですが(「ブロートクンスト(パンのための芸術)」(モルゲンターラー博士による命名)と呼ばれる、「売る」用の絵は、絵がよく売れるように顧客に合わせて描いていたそうです。一方、ダーガーはあの部屋を去る際、自分の作品について「Throw away!(捨ててくれ!)」と言ったとのこと。